面白かった!(小並感)
作品で放り投げられていた部分も散見されはしましたが、「こういう意図で作ってたんだろうなあ」という思いを十分に感じる作品でした。
凄い今更ですけども、だいぶ前に見終わったので一応の感想をば。

放送当時は中途半端に観ていたので理解できなかった部分も多かったですが、これで初めてしっかり理解することができて良かったです。
「あかつき号で何があったのか」は終盤を見ていたにもかかわらず、なぜか当時からうろ覚えだったためずっと疑問に残っていたのですが、それも解決しましたし。
さそり座のくだりは当時イミフすぎた(適当に見ている自分すら蛇足では?と思った位)けど、見直したらあの部分ってのは必要だったんだなと思えました。
あれは、「神対人」の戦いの後に起こる「進化した人対現人類」との戦いの縮図だったんですね…
でも、アレはどう考えても尺が無さ過ぎw

現実と虚構の入り混じった雰囲気と、3人の主人公たちのそれぞれの生き方が魅力的に描かれていて実に見ごたえのあるいい作品でした。
名実ともに『大人でも楽しめるライダー』でしたね!
いい作品でした。
私の求めてる「仮面ライダー」って感じは、やっぱこの辺だなぁ。

<以下オマケ>

下記感想は一話一話をピックアップしたものではなく、作品を包括的に観た感想になるため、具体性に欠け、また個人の主観による評価となっています。
が、最終回を受けて書いた内容が下記のようなものだったため、とりあえずの感想として置いておきます。
なんかのびのび(別の意味でのびのびしてるけど)書けなかったので不満のある感想ではありますが。
いずれは一話ずつ感想が書けたらいいなぁ…ってことで。

あとこの中に組み込めなかったけど、怪人の造形がめっちゃかっこよくて感動しました。
最近はごてごてしすぎて戦隊っぽい怪人が多いから、こういう造形にしてほしいなーっと思いながら見てました。
個人の趣味でしょうけど、ああいう生っぽいシャープでスタイリッシュな敵が割と好きです。ライダーのボディもメカっぽいより生っぽいのが好きです。
敵が物静かなのも凄みがあって良かったですね!!
後半でアギト=翔一君とバレるまでは戦闘中にほぼしゃべってなかったので、しゃべりだした途端に氷川さんとのコントが始まって笑いましたw
駄目だ、こいつら!(褒めてる)
あ、葦原さんのギャグ成分はハイパーバトルビデオでの回収をおすすめしてますw
にしても、あのラストで「あの犬死ぬよ」って言う井上敏樹ェ…
しかし893らしい発言である。納得。




↓以下微妙な賢者タイム↓


・ストーリー
アギトの根幹をなすテーマは非情に一般的で普通だが、それをミステリー仕立てで展開し、次の展開を期待させるつくりになっているのが魅力の一つだった。
3人が3人とも主役、という複数主人公であるがゆえに、それぞれの物語で際立たせる部分を決め、最終的にそれが繋がっていく様はカタルシスを覚えた。
最終戦までは「神対人」の構図を描き、神の御手を脱した人間が次に立ち向かうのは同じ人間であるという展開まで発展させたのは、「ヒーローであり人間である」という根底のテーマを描くうえで必要であったと思う。
この部分を描くことで、アギトという物語は人間の可能性を否定しない作品として成立したのではないだろうか。

アギトにみられる「神と人」の対立は非常に神話的である。
北欧神話のオーディン、ギリシア神話のゼウスらは父親殺しの結果力を得て頂点に立つが、アギトはそれに倣い、父である神を超える存在となった人間が神と戦い、最終的には人間が進化することを許される流れとなっている。
オーソドックスな創世神話を軸とすることで、難解な雰囲気を出しつつも全体の流れがつかみやすなり、固有の神話を提示しなかったため、必要最低限の普遍的な創世神話の流れを無理なく落とし込めたという印象を受けた。
超能力、人間を超える力というのは、「人間の可能性」として創作物に非常に多く使われる題材であるため、使い方を間違えればチープさが目立つが、それを「人間の進化」とリンクさせて創世神話と絡めたことで、むしろわかりやすさというメリットが生まれたと言えるだろう。

平成になってからのライダーは「人でありながら人ではない」改造人間とは違い、「人である。だが同時にライダーでもある」という、肉体的に人間である設定の主人公が基本となっている。
平成ライダーは昭和のライダーからの基本パターンは受け継ぎつつも、「人間として生きる中で、その力とどう折り合いをつけていくか」という点に重きを置いている印象がある。
諸事情により人でなかった、または人であることを捨てたライダーも中にはいたのだが、彼らも「人間」というポジションを捨てていないからこそ、濃厚な人間ドラマの中に『仮面ライダー』というものが存在できたのではないだろうか。

昭和ライダーには明確な悪の組織があり、その悪の組織と対することで仮面ライダーの存在は成立していた。
彼らは正義の執行者であり、悪と対峙することがライダーの使命であった。
それはいわば、滅私奉公の精神の体現でもあり、そうすることがヒーローに求められていた時代であったと言えるだろう。
しかし、種族対種族といった対立を描き、明確な悪の組織の存在しない状況下で、平成ライダーは「人間」としての立場の代表者として描かれるようになった。
「ショッカー」という絶対的な悪の存在しない中で、「正義」について問う。
人間という立場だからこそ出来る問いを描くことに重点が置かれたように思う。
そういった意味で、アギトは平成ライダー初期のテーマ性を色濃く感じる作品であったように感じた。


・キャラクター
全体的に個性的で味わい深いキャラクターが多くを占めていたが、以下、特にライダーとなった主役勢を中心に語る。

白倉プロデューサーは、アギトを「シャンゼリオンのリベンジ」と語っていたと聞く。
シャンゼリオンは涼村暁というノーテンキラキラな私立探偵が、テキトーにのんきに、世界平和なんて無関係に戦う、時代を先取りしすぎたヒーローものである。
白倉Pが描きたかったのは「力に苦悩しないヒーロー」であろう。
その意図通り、津上翔一は己の力に悩むことがない。
主人公でありながら、また記憶喪失であるというマイナス面を持ちながらも悲壮感は無いに等しい。
彼は涼村暁をベースに生み出された、昭和ライダーへのアンチテーゼともいえる存在であった。
彼が主人公にであったために、アギトは重苦しい展開が多くありながらも明るい側面(美杉家のシーンなど)が際立ったともいえる。
しかし、ヒロイン・真魚の父を自分の姉が殺したと分かった時には、その自責の念から力を捨ててしまう。
それまでも戦いの中で敵である水のエルにおびえるなどで戦意喪失したことがあるが、彼が力を捨てるまでに至ったのは人間関係での問題が生じたからである。
これもまたヒーローとしては珍しく、「ヒーロー以前に人間である」という彼のスタンスが垣間見える展開であった。
そして結果、人間同士の絆を取り戻し神を撃退した。
彼は力を得た超人でありながら、「人間」というものを決して忘れることがなかった。
「ヒーローも人間である」という意思を体現したキャラクターだったといえよう。

一方で、葦原涼はライダーになる=力を持つが故のデメリットを最大限に受ける。
彼は信頼していたものに裏切られ続け、好意を寄せるものには死なれ、力を持つがゆえに最大級の孤独を背負っていかざるを得なくなる。
彼はいわゆる「改造人間の苦しみ」を表現するためのキャラであった。
しかし、彼はその逆境でも生きていくことをあきらめなかった。
一度は死に、何度も死に直面しながらも、彼は戦い続けた。
それは彼が運命と戦おうとする強い意志の持ち主だったからなのだろう。
超人であるがゆえに背負う不幸がある。しかし、その不幸に立ち向かった心の強さは、彼が人間であるからこその強さであった。
彼は力に翻弄されながらも人間であることをあきらめなかった。
彼は、人間であるがゆえの強さを体現したキャラクターだったのだろう。

そして、氷川誠は「力を持てないもの」の代表者として存在している。
彼は人間が苦労して生み出した力を使い敵と戦うが、結局はアギトやギルスらにお株を取られ、人間の限界を視聴者に知らしめた。
だが、人間だからこそ言える言葉を彼は言う。「ただの人間だ!」と。
その言葉は、アギトという超人間的な力とは別の可能性を示している。
人間であることに限界はない…『仮面ライダーアギト』という物語は、超人的な存在の可能性を否定しない。
そして、人間自身が持つ可能性もまた、否定しない物語なのである。
氷川誠は人間であり、これから先もおそらく人間であり続ける。
終盤で語られたアギトと人類の対立が発生したとしても、彼のような存在がいる限り、人間はアギトらに引けを取ることなく存在し続けるのだろう。
絶対的に不利な状況下、不屈の魂で神に立ち向かっていった「人間」そのものの彼の存在は「英雄は、なにも力を持つ者のみがなるものではない」ということを示していたのだろう。

力に飲み込まれながらも最終的におのれを取り戻し、満足して死んでいった木野薫は、過去に生きる人間だった。
ある意味、彼は葦原涼のもう一つの姿だったのかもしれない。
だが、彼は翔一や葦原涼に救われた。
過去に生きることが救いだった木野にとって、自分と同じような状況下にありながら明日を生きようとする彼らの姿は、本人の知らない間に影響を及ぼしていたのだろう。
自分の殻に閉じこもり、自分のために人を救っていた彼は、最後の最後に他人のために自分を犠牲にすることをいとわなかった。
死の間際で彼が見た雪山の幻は、明日へと向かう気力に満ちたものだった。
彼は犠牲となったが、翔一の明日を守ったのだという満足感が、彼にその幻を見せたのかもしれない。

サブキャラクターについて、特に北条透のキャラクターは、いわゆる井上脚本の醍醐味ともいえるものであった。
井上脚本の多くはアクが強く、個性も強すぎるがゆえに他者から嫌悪されるキャラクターが存在するが、彼もその一人である。
しかし、いつもは憎まれ口をたたいていても、司龍二の一件で正義を守る刑事としての心意気を見せ、ぐっと好感度が上がった。
いつもの井上的手法ではあるのだが、普段とは異なるまっとうな人間性を描くことによって、マイナスの印象が一気にプラスに転換され、好印象を抱くことができるキャラクターに変換されるというのは、やはり妙味にあふれ楽しく見ることができた。
ライダーたちの戦いを彩る様々な人々はみな個性にあふれ、非日常的な世界を日常に変換するための大きな役割を担っていた。
アギトの世界観を描くうえで、欠かすことのできない登場人物たちについては、またの機会に語ることとする。

彼らはそれぞれの役割を担い、全うした。
彼らは人間的に完璧ではない。楽天的すぎたり、乱暴だったり、不器用だったりと、短所も極普通にある、いわば「普通の人間」であった。
普通な彼らは、普通ではない運命を背負わされ、悩み苦しみながらも前に進むことを諦めなかった。
その諦めない姿に人は感動を覚えるのだろう。
アギトは最初から最後まで、人間そのものが主役の作品であったと思う。


・作品のリアリティについて
平成ライダーの初期は特有のリアリティがあり、アギトでもそこが非常に魅力であった。
個人的には555ぐらいまでに強く感じることだが、物語の舞台が現実と地続きになっているように感じる。
平成二期は、おそらくディケイドやWでの成功があって、またおもちゃの販促のしやすさがあってか、舞台を特殊な架空の世界にすることが多い。
それは特殊な世界感を作ることで様々な利点を産み出す一方で、「現実に起こりうる」というリアリティを犠牲にしてるのではないだろうか。
もちろん舞台を限定するが故に、その舞台の掘り下げやギミックに魅力があるというのも一つだ。
しかし、架空都市の中での出来事は、どことなくアニメチックで現実味がない。
あくまで空想の人物が空想の世界で活躍しているという、現実と隔絶した印象を受けてしまう。
アギトはいわゆる「普通の日本」の「東京」で起こった事件を扱っていて、「もしかしたら新聞の片隅に載っているかもしれない」「自分の知らない範囲でこんなことが起こっているのでは?」と思わせるリアリティがあった。
舞台をあえて設定せず、現実と平たんにすることで、現実と空想の曖昧さがリアリティを産み出していたのだろう。
場所を限定しないという意味で舞台は広いが、そこを補うためか人間関係は実に狭い(最終的にメインキャラは主人公との関係者に収れんされる)
そのため、舞台の広さとは裏腹に、物語は主人公を中心に描かれる。視聴者が生きている世界を、あえて描写する必要がないからだ。
だからこそ、主人公を中心とした人間関係に割く時間が多くなり、キャラクターも人間関係も深まるのではないかと思う。
平成二期のライダーの多くは舞台を限定している。それが故に舞台装置(世界観設定や周辺人物の充実など)へ割く時間が多くなり、キャラクター自身の掘り下げに不満を感じることは多々ある。
描くべきは主人公であるにもかかわらず、舞台を説明するためのゲストに時間をかけてしまい、結果主人公勢の掘り下げが浅くなりがちという点は、個人的に感じる平成二期の問題点だ。
アギトではそれが無かったというのが、満足感の一つかもしれない。


…オチはない!!(ディケイドネットムービーの海東さん風)
またちゃんと書こう…

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