見てきましたOver Quartzer。
噂にたがわぬ『平成』の集大成。
ただ一つ言えることは、平成ライダーたちよ…ありがとう!

※ネタバレあります。
気持ち悪いぐらい長いわりに要素はピックアップ出来てないですがご容赦ください。

<続く>


・概要
今回の映画は、前半が「本編でできなかったドライブ継承編~信長もあるよ~」、中盤が「ソウゴの真実編~クォーツァーの登場~」、後半が「真の王の誕生編~20周年記念キック~」の構成になっていました。66分じゃ足りない。
本編でも話題になった「お前は本当に常盤ソウゴなのか?」という侑斗のセリフを回収する物語になっており、「普通の高校生、常盤ソウゴ」と毎週のように連呼されていた本当の理由がわかる物語になっていました。
ここまでくると、一体どこからどこまでを最初に決めていたのか、こんなに自由にやってそれなりにまとめた制作側は凄いんじゃないかとすら思えてきます。
この着地点はきっと本編とは別の着地点なんだろうけど、これはこれでアリだなっていうもう一つの「ジオウ」の最終回としての物語として完成されていたように思いました。
平成ライダーの20年間、その間私がリアルタイムで視聴したものは多分半分程度だと思いますが、走馬灯のように思い出がよみがえり、「平成」という歴史のひと幕に想いを馳せる作品になっていてよかったですね。

・第一幕:信長の秘密
(あらすじ)
いつものようにクジゴジ堂で過ごすソウゴたちもとにクリム・スタインベルトのSOSが…
ソウゴたちはタイムジャッカーとは別の敵がクリムの祖先を消し、歴史を変えようとしていることを知ります。
剛の願いもあって、きっかけとなる「長篠の合戦」が行われた時代へと旅立つソウゴたち。
およそ歴史上のイメージとは異なる信長はクリムの祖先・クララに夢中。
ソウゴは合戦を放棄してクララを家に送り届けたいという信長を警護することに。
無事クララを送り届け、仮面ライダードライブの歴史を守ったソウゴでしたが、言い伝えられた歴史とその瞬間を生きる人との違いを実感します。
そしてドライブの力を継承し、総てのライダーの力を得たソウゴは、人々の称賛の中王座へと歩み寄りますが、すでに王座についていたのは見知らぬ男でした。

信長のキャラ演者によって違いすぎィ!!<例:オーズのノブくん
前半のギャグパートの緩さ半端ねぇなwというか、もはやこれは「せっかくだしノウハウ活かして時代劇やろ?ね?やろ???予算つくしやろ???」みたいな思惑も感じなくもないのですが、とりあえず小規模な長篠の合戦の再現で東映らしさをフル活用していたのにはちょっと感心。
ライダーが足軽に乗って突進してくるのマジで面白みしかないw
剛に関しては、チェイスを復活させるために奮闘している姿が描かれてて良かったです。良かった…主役(と姉)のチェイスの扱いがマトモじゃなかった(失礼だけどマジ)だったからせめて剛がちゃんと考えててくれてて良かった…っていうw
これ合わせなのか本編でもチェイスが復活しましたし、ちょっとだけ剛とチェイスが報われたのかなという気が。
クリムの先祖の話で、蘭奢待を壊れた十字架にさし直して仲を取り持つ(本人にその気はない)というオチはオシャレにもほどがあってよかった。シャレオツすぎる…
信長のキャラがあんな感じだったからこそ、ソウゴとの「魔王」として構築されていく共通点も感じられて面白かったです。
まぁなんでクリムが地下で寝てるはずなのに起きてるのかとかはVシネを見ていない私には微妙に「?」だったのですが、定期的に映画でよみがえってますしね。
オジサンが「きてるよ!幽霊の人。とりあえずお茶出しといたけど」というコントが見られただけで、クリムが復活してよかったと思うw
あと、ザモナスがクリムの十字架を奪ったのは、ソウゴたちがドライブの力を得るきっかけを作るためだったんですよね?でないとソウゴがドライブ勢と出会うきっかけがなかったですし。
ドライブの継承を残していたのは、役者の都合か『仮面ライダー3号』の歴史改編の利用かと考えていたのですが、どこからどこまでが予定していた内容だったのかわからないぐらい要素をフル活用してましたね。
魔王・信長の話は以前壇クロトの時にやってたりとか、歴史改編でクリムの存在自体を消す(3号ネタ?)とか、それなりに布石を打ってる感もあるところが無駄に用意周到。というか散りばめたネタを拾うのが上手すぎるんだよなぁ。

そして今回、信長のキャラクター像への疑問の投げかけ、それ自体が「歴史」そのものへの疑問の提示になっていたのは感心しました。
歴史は人によって作られ伝えられたもので、その瞬間を生きた人々の本当の姿を伝えているとは限らない。
それは今回の信長然り、ソウゴ然り、後年伝えられた虚像が独り歩きしているだけであって、本質的なものを見失っているのではないかということ。
それは後半ソウゴが「平成の世は凸凹だったが、その瞬間を必死に生きていた」というライダーたちの姿にも重なります。
「面白い」「面白くない」という世間の後発の評価は様々ですが、その当時リアルタイムで見ていた人々の評価と後年の評価は全く違うものですし、たとえどんな評価であっても、その当時必死に作品を作っていた、作品を見ていた、その事実は変わらずあるわけです。
「君にとっては『過去』でも、俺にとっては『今』なんだ」というソウゴのセリフは、潔さというか覚悟というか、たとえ未来や過去が変わったとしても『今』という一瞬はその時しかないものだからこそ『今』を必死に生きるんだという、それが正しい生き方だったよなとふと思わされました。
白倉Pがよく言う「ライブ感」はこういうことなんでしょうね。

・第二幕:常盤ソウゴの秘密
(あらすじ)
ドライブの力を得たソウゴは、真の意味で平成ライダーたちの力を継承しました。
しかしそれこそがウォズの属する歴史の管理者「クォーツァー」の陰謀であり、平成ライダーたちの力を一度集め、平成という時代をやり直すという目的のために集められた力でした。
そして「クォーツァー」代表の常磐SOUGO(ISSA)の影武者であったのが、普通の高校生・常磐ソウゴであったと明かされます。
彼はSOUGOの代理としてライダーの力を集めさせられていたのでした。それがウォズの持つ「逢魔降臨暦」に書かれた計画であったのです。
常磐ソウゴは「王様になれると吹き込まれた裸の王様であった」ということが明かされ、力を奪われウォズにも裏切られ、ソウゴは絶望の淵に立たされます。
しかしそれを鼓舞したのが、正史ではないライダー『仮面ノリダー』の木梨猛でした。
「選ばれた者には、選ばれた者の責任があるんじゃないのか」とソウゴに語る木梨猛。
そして奮起したソウゴは、もう一度常磐SOUGOに立ち向かい、力を取り戻すのです。

まず第一声の感想が「お前、常磐SOUGOってツラじゃねーだろ!!!」という全力のツッコミw
うっかり設定を見るまで「別の名前だけど常磐ソウゴと名乗っただけ」かと思ったら本名?がそうなんだ…ええ…?
しかしソウゴが本当にアナザージオウだったとは…いやじゃあ力ちゃん声のオーマジオウって誰やねん!っていう気がしますし、正直クォーツァーがどこからきてどこに行く存在かもわからないし、まったく謎は解けてないんだけど、なんとなく納得してしまう、そういう不思議さのある展開ですよね。
でもよく考えたら、この歴史自体がTVシリーズのアナザーなんだろうし、多少の矛盾含みで成立している世界なのかもしれません。
ただ「設定がバラバラで一貫性のない平成ライダーを作り直すべき」という意味不明にもほどがあるSOUGOの意見は、あまりにも無茶苦茶で思わず笑ってしまいましたwメタフィクションにもほどがあるwww
確かに毎年毎年よく思いつくなっていうネタのオンパレードでしたしね。栄光の7人ライダーなんかは客演のおかげで同一世界線上っていう設定(一応…)になってるし、「平成ライダー」というくくりから見れば、確かに奇妙で気持ち悪い整合性のなさがあるかも。
バールクスやザナモス・ザンジスらが「平成にあって平成ライダーでない者たち」の集合体なのも、そう望む一因なのかもしれませんし。そもそも彼らを総称しての「平成」じゃないところも、割と闇が深いっちゃ深いしね。

しかし敵の行動原理がメタネタなのは、ソウゴたちが戦った「クォーツァー」が、視聴者の側面も持っているということなのかもしれないなと感じました。
「クォーツァー」は歴史の管理者と位置付けられていましたが、実際は仮面ライダーシリーズを取り巻く環境、視聴者、時代のプレッシャーが「クォーツァー」だったのかなと。
彼らがろうとしていたことは「俺だったら私だったらこうするのに」という、作品が進行中or終わった後の大品評会に似た、第三者的視点からの再構築なんですよね。
それは「すでに作品が世に公開された」という結果ありきのたられば論でしかなくて、そもそもその結果を生み出した産みの苦しみへの評価はないわけです。
ソウゴがクォーツァーの言葉に反発したのは、その「産みの苦しみ」をどの作品も味わっているにもかかわらず、それをなかったことにして再構成するという歴史への侮辱を行おうとしているからという、ある意味制作側の主張の代表者であるソウゴと、視聴者他第三者の代表・クォーツァーの対立だったと言えるのではないでしょうか。
もちろん物語の中で、ソウゴたちが築いた歴史、時代を否定されるそのことへの怒りを感じましたし、自分たちが見てきた「平成」という歴史のひと 幕を否定される悲しさはありました。
でもその一方で、クォーツァーの存在は非常に興味深いものだと感じました。
20年の歴史の中で「平成ライダー」が必死に戦ってきたもの、それはいつの時代も「クォーツァー」であった視聴者たちだったのかもしれません。

また、客演でも魅せてくれたのが今回の映画でした。
春映画では再演は不可能であろうと考えられていた佐藤健が登場しましたが、それよりももっと意外な、そもそもテレビ局も違い、仮面ライダーシリーズの関係者ですらないひときわ異色だった「仮面ノリダー」の登場は、正直意外どころの話ではありませんでした。
永い時を経て、とうとうパロネタの仮面ノリダーが「仮面ライダー史」のひと幕に収まることになったのです。
後半の戦闘パートで登場したブレン、カチドキ斬月、ゴライダー、仮面ライダーG、漫画版クウガといった、平成にあって「平成ライダー」の枠組みに入れない彼らもまた、平成を彩る仮面ライダーの歴史のひと幕であると、本家本元の仮面ライダーが認めたのです。
いや、正確には映画を見ている人々が、彼らを知っている人々が、彼らもまた仮面ライダーであると認めているからこそ、客演を果たしたと言えるのかもしれません。
この客演は、仮面ライダーが繋いできた歴史のまさに集大成だったと思います。
個人的には「仮面ライダーG」が再び新録で見られたことが最高に幸せでした。
在り得ないことが在り得る、「その時不思議なことが起こる」ことこそ、平成ライダーの原点でしたね。

・第3幕:平成、そして
(あらすじ)
常磐ソウゴは力を取り戻し、受け継がれた19ライダーの歴史を昇華させ、20代目のライダーとしての真の力「オーマフォーム」を手に入れます。
そして、ジオウの前に立ちふさがるバールクスらを平成ライダーたちが力を集結し倒すことで、未来の可能性である「オーマジオウの歴史」をも破壊するのでした。
その結果、ゲイツとツクヨミは失われた未来の存在のため姿を消し、ウォズもまた戦いの中で命を落とします。
失意のソウゴの前に現れたクォーツァーの面々は、ソウゴの作る歴史を見守りたいと言って立ち去りました。
そして、クジゴジ堂に戻ったソウゴの前に、ゲイツにツクヨミ、そしてウォズといったいつものメンバーが舞い戻り、ソウゴたちの歴史は再び刻まれることになりました。

なにが面白いって、「平成」の板を掲げるバールクスの絵面ですよね。そのための板バリアだったのホント草。
Twitterでも公開当日の感想がほぼこれだったのは、もはや大成功としか言いようがないw
これを見た瞬間、カッコいいとか感動的とか、そういう様々な想いがぶっ飛ぶぐらいのアホらしさで、でもこれこそが「平成ライダー」だよな!っていう謎の達成感が沸き起こりました。
ここに至るまでのソウゴの決意も、凸凹で無茶苦茶だった平成ライダーへの全肯定も、ライダーたちの全力の戦いも、オーバーキルにもほどがある最終フォーム祭も、とんでもない客演の数々も、全部ぶっ飛ぶ衝撃(笑撃?)でしたね。
あれはまさに平成最後を冠する映画にふさわしいラストでした。
そしてちょっと寂しい別れからの「お前らなに勝手に復活しとんねん!」というツッコミ待ちのご都合復活も、お祭りだからねしかたないねと許せてしまうのは、私という人間がソウゴの幸せを願っているからにほかありません。

ウォズが逢魔降臨暦を破り捨て、歴史の呪縛から逃れたシーンも凄く良かったです。
歴史は誰かによって定められるものではなく、誰もが知らない未来へと向かうことこそが歴史を作るっていうのは、当たり前なんだけど忘れかけていることですよね。
一分一秒先の未来は誰にもわからない。たとえそれが未来から来た人間であっても、歴史を管理する立場であっても、今この時がどんな未来を創るかは彼らにはわからないわけです。
それは多分生きていくことだけじゃなく、作品作りにも同じことが言えるのではないかと感じました。
どんなに優れた作品も、世に出してみなければどんな評価かわからない。でも、それを恐れず作品を世に出すことが歴史を作り、それがつながっていく。それは「平成ライダー」の歴史そのものでしたね。
私見ですが、「平成ライダー」の最大の功績は「途絶えていた歴史を復活させ、繋いだ」ことだと思います。
そもそも作品初期の評価が高く、初代のイメージがいまだ根強い当シリーズにおいて、まったく異なる様相の作品をシリーズとして復活させることへの恐怖は相当だったのではないでしょうか。
しかし、それを恐れず、妥協しない作品作りをしたことが、新たな「平成ライダー」という歴史を切り開きました。
この決意は「仮面ライダークウガ」のOPの歌詞に強く籠められています。
それまで埋没していた過去の遺物を復活させ、一大コンテンツとして成立させた経緯こそが「平成ライダー」の価値であると私は思っています。
そういったことも含めての未来への意識があのシーンには詰まっていたんじゃないかな、と。
過去のコンテンツを復活させることに深くかかわってきた白倉Pだからこその平成への想いが、この映画には詰め込まれているように思いました。

・終わりに
私にとっては、平成ライダーの産みの親は白倉Pその人です。
シリーズ自体はクウガから始まっていますが、クウガは撮影手法、演出等々の側面でこそ昭和からの進化を感じさせますが、キャラクターの精神的側面、自己犠牲的英雄像という点では、部分的ではあれ昭和を引きずったヒーローであると感じました。
とはいえ、確実に新たなヒーロー像はそこで生まれていました。
OPの歌詞が「伝説は塗り替えるもの」「甦れ」「今、あの崖(=時間)を飛び越えて」と歌い上げているのは、断絶したライダーの歴史を新たに作り上げる決意そのものだったと思います。
ただ、クウガで芽吹いた平成のヒーロー像を模索し、開花させたその人こそが白倉Pであると私は思います。
それはもっと以前、実際は「ジェットマン」で白倉・井上コンビが自己犠牲的・献身的なヒーロー像をぶち壊した点で開花していたものかもしれません。
しかし「仮面ライダー」というコンテンツにそれを持ち込んだのもまた、彼ら二人の作品「仮面ライダーアギト」であったと思います。
ヒーローであることは苦痛でも苦労でも悲劇でもなく、誰かを守る力になりえるという、どこか明るい「力」の描き方。それこそが昭和と平成に生まれたライダーを分ける大きな違いではないか。
アギトという作品が描いた「仮面ライダー」の力は、それまでの悲劇から生まれた力とは異なり、ある種の未来志向的で明るい「仮面ライダー」の可能性を広げるものであったのではないか。
私はそんな風に感じていました。
もちろん、その悲劇的側面を描くことを彼らが忘れていたわけではありません。ジェットマンでは献身的に平和を願うリーダー・竜の姿があったように、アギトでもまた、力を得たがゆえに悲劇的な人生を歩む葦原涼の姿がありました。
個人としての自由を追求することが平和につながるわけではないし、力を得ることは決して幸せを生み出すことばかりではないと、彼らはバランスを取って教えてくれていました。
しかし、その比重を徐々に変えていくことによって、いつしか仮面ライダーの力は、悲しみよりも喜びを生み出す力へと変わっていったように思います。
「仮面ライダーが戦隊的になった」と批判されることはままあります。それはひとえに、仮面ライダーが孤独という悲しみから生み出される力ではなくなり、仲間とともに立ち向かう喜びから生まれるものへと、時代とともに変化していったからではないでしょうか。
我々が「今」見ている「仮面ライダー」は、私たちが過去に見ていた仮面ライダーではないのです。
「仮面ライダー」というコンテンツが成長し、時代とともに変化したからこそ絶えず続いてきた、その結果を見ているのです。
我々が求める世界、それが仮面ライダーに反映されていると言っても過言ではないわけで、「今」を生きる作品に過去の作品同様の要素を求めること自体が、視聴者として間違った行動であると言えるのかもしれません。

この映画は、そんな風に変化してきた「平成ライダー」というコンテンツを全肯定する物語でした。
批判も非難も称賛も無関心も、すべてひっくるめて過ごしてきた20年という時が、「仮面ライダージオウ」という物語を形作っています。
「仮面ライダージオウ」という物語は、20人目の仮面ライダーの物語であり、合わせて時代とともに変化を続け生き延びてきた19人のライダーたちへの称賛とねぎらいの物語でした。
数々の難事も苦労も非難も批判も、物語が完成され完結したという喜び、そしてそれが続いていく幸せの前には太刀打ちできないのです。


「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」が描いたもの。
それは「平成」の世に生まれた新しいヒーローたちが、苦しみながらも己を獲得していった集大成であったのではないかと思います。
これからも仮面ライダーは変化を続けながら続いていくのかもしれません。
「平成」を経て「令和」を迎えるにあたり、新時代のヒーローたちが私にどんな世界を見せてくれるのかわかりません。
ただ、私はそれを見守りながら、時に老害として、時に新参者として、彼らの活躍を見守りたいと思っています。

拙筆ながら、「仮面ライダーシリーズ」に出会えた喜びが伝われば幸いです。